先週の茨城会へ参加しましてね。
コマンドマガジン『THE RUSSIAN CAMPAIGN 2』をですね。
2面打ちして来ました。
お相手は水戸爺さんと紫の旗さんのお二方。
「ロシアキャンなら、2面打ちでもOKっすよ」と言ったら、「じゃあ、お願いします。」と。
内心「えっ、やっぱり!?」とビビったのは内緒。
両方ともソ連軍でした。どちらかがドイツ軍なら無理なんですけど。
忙しかったので、写真はなーしです。
2面打ちでも問題ないと判断した理由はですね。
最近錬度の高い人間と集中して対戦し続けているので、ロシキャンの本質を掴めたのです。
そして自分なりのソ連軍の戦略を確立させているのです。
良く、「どこに何戦力」とか「どのユニットがいるといい」とか聞きますね。
でも、そんな事は大した問題ではないんです。
要は、自分がどのように戦争を行って、どうやって勝つかをイメージできるかどうかなんです。
たまに、戦略を凌駕する駒捌きがありますがね。
オレにはそんなモン必要ねえ、です。そんな奇策で勝ったとしても、意味はないと信じています(「オメーが言うな」、の非難がGOGO聞こえう)。
できるだけ、どのようウォーゲームでも、史実や実生活でも共通する“理”を追求する。王道の勝利を目指すようにしています。
だって、ろくに戦力がない空挺が首都を攻略したり。補給源だからと都市に上陸して首都を目指すとか。オカシイっしょ?
まあ、あまりそんな観念的な事を言われても、ウザイだけなのでリプレイに行きませう。
最初に始まったのは水戸爺さんとの対戦で、こちらを『THE RUSSIAN CAMPAIGN』一番。
それより遅れては紫の旗さんとの対戦で、『THE RUSSIAN CAMPAIGN』二番とします。
『THE RUSSIAN CAMPAIGN』二番まずは、紫の旗さんとの対戦からお伝えします。
配置は上のような感じでした。わざとブレストを薄くしました。
紫の旗さんの腕前を知るためです。事前の会話の中では「ソロプレイで5~6回やりました」と言っており、それがどれ程なのかを試したのです。
紫の旗さんは、そのブレストを突破口に、2線目まで突進して攻撃して来ました。
やれやれ、ちゃんとロシキャンを理解しているぞ、と身に染みる事になりました。
指手として悪くない紫の旗さんでしたが、サイの目は最悪に近いものでした。
1ターンの攻撃で、中央軍集団が行った7-1の最高オッズでは1のDR(×2)。襲撃した2線目もCだかEX。オデッサへの3-1はAR。これでドイツ軍は行き成り苦しくなりました。
ソ連軍は突出した中央軍集団の装甲軍団×2のスタックを包囲攻撃を行いました。そう、そこまでの余力があったのです。それには失敗しましたが、戦線は張れていました。
2ターンの紫の旗さんはルーマニアからの突破を指向しました。
増援をルーマニアへ送り、前線は南方軍集団の司令部からスツーカを飛ばして突破を目論んだのです。
これは初めて見る手なので驚き・・・。いや、嬉しくなりました。「こういう手もあるのか」と。しかし、ここでもサイの目は芳しくありません。
主力の中央軍集団と北方軍集団は、ソ連軍の戦線に引っ掛かって前進が捗りません。
3ターンの天候は晴れ。
ここでお天気が崩れたら、そのまま勝負が決まったのですが、思うようになりませんでした。
後に触れますが、先に進んでいた『THE RUSSIAN CAMPAIGN』一番でも晴れだったので、「こっちでも晴れかよ」と思ったモンです。
お天気は良かったものの、ソ連軍の前衛配置が効いて、中央軍集団と北方軍集団は前進しただけ。精々、スモレンスク周辺で南方旋回を遅滞すべく置いた、ソ連軍の戦車軍団を排除しただけ。
北方軍集団がやっとでレニングラードへの攻撃態勢に付いたくらいでした。
南方軍集団は~。良く覚えてないなー。ソ連軍の遅滞戦術にハマってたような。
そして4ターンは降雪。
これでレニングラードはオッズが立たず攻撃不能。モスクワは届かず。キエフもオッズが立たず断念。
唯一、防備が手薄だったドニエプルペテロフスクを強襲占領しますが、ソ連軍の反撃により奪還されてしまいます。これでサドンデスが決まりました。
さて、先ほど述べましたが、紫の旗さんはソロで研鑽しており、指手としては決して悪くありませんでした。
ただ、何分古いゲームなので、サイの目が偏るとどうしようも無くなってしまいます。今回がそれに当て嵌まるでしょう。
私が2面打ちを受けた理由の1つも、どちらかの対戦はこのような結末になると予想していたからです。
体調も良かったし、酒も飲まなかったしw。
『THE RUSSIAN CAMPAIGN』一番続いて『THE RUSSIAN CAMPAIGN』一番に移ります。
お相手の水戸爺さんは、VASSALで通信対戦しているのを知っていてですね。穴の無い配置にしました。
41年5/6月ターンがー、Aには5戦力しか置かなかったため、自動的勝利を決められてしまいます。
そこからキエフ軍管区を突き抜けられ、ソ連軍が2ターンで粘る予定の山岳を押さえられてしまいました。ついでに言えば、中央軍集団と北方軍集団ではサイの目が走り、前線のソ連軍の皆さんは居なくなってしまいました、とさ。やれやれ。
41年7/8月ターンソ連軍は中央軍集団と北方軍集団の前面では、いつものように前衛配置で挑みます。しかし、先のターンに、サイの目が走った分、ソ連軍の戦線は弱体でした。それは如実に出たのが南方。キエフ前面がキレーに無くなっちゃいました。ああ、中央軍集団と北方軍集団でも同じことが起きてました。
ソ連軍はここで一気に戦線を後退させ、レニングラードやモスクワ前面まで下がります。二番でもありましたが、南方旋回を遅らせるべく、スモレンスク周辺に戦車軍団を配備しました。
41年9/10月天候は晴れ。やれやれ、です。
ドイツ軍はレニングラード前面が強固に防備されているため、一部を南方旋回させ、主力はモスクワへと接近させます。そしてカリーニン北部で渡河。モスクワ河へ楔を打ち込みます(地図で探したけど、マップでの河川が何か不明でした)。そしてキエフやドニエプルペトロフスクを攻略。
ソ連軍は中央から南方でも脅威を抱える事となりました。
41年11/12月天候は晴れ。一瞬投了と咽元まで出掛かりました。それほどこの戦況は厳しかったのです。
ドイツ軍はモスクワを攻略・・・、に成功しましたが、占領に拘りません。モスクワのソ連軍を後退させ、それ以上踏み込むことはありませんでした。
南方では、ハリコフ、スタリノを攻略。セバストポリは孤立化させています。
この時点でソ連軍の労働力は2まで減っていました。配置されていたレニングラード以外の労働者をイカレたのです。
ソ連軍を担当して、ここで追い詰められたことはありません。
しかし、ドイツ軍は次のターンに降雪があるため、ソ連軍との距離を空け、冬営へと移りました。
ソ連軍?ソ連軍はドイツ軍の主力である、モスクワ周辺から東進させぬよう、増援で現れた部隊を並べるのが精一杯。
42年1/2月漸く降雪。ソ連軍のお休みできるターンです。
ドイツ軍は冬営に移ってましたが、布陣の弱体な南方にソ連軍は親衛軍を送り込み、反撃の態勢を取りました。しかし、それ以上は困難なため、失った戦力の補充に追われます。
42年3/4月記憶では、軽い泥濘でした。
ドイツ軍が冬営のため、ソ連軍との距離を置いていたため、戦闘は起こりませんでした。
はっきり言いましょう。ここでドイツ軍はフィンランド軍で攻勢を行うべきでした。唯一のスツーカを使え、これでレニングラードへ迫るのが良かったのでしょう。
フィンランド軍が仮に1ユニットくらい失ったとしても、天候が良好になり次第増援として受け取れ。フィンランド軍のみでレニングラード強襲を狙えたのでした。ドイツ軍の兵力も、この周辺には最低限しか配備していませんでしたが、もうちょっと。例えばフルスタックの歩兵軍団+司令部を置いてあれば、いつでも攻勢を取れたのです。
それが無かったため、ソ連軍としては安心でき、先々反撃の礎に出来たのです。
42年5/6月~秋までここからは記憶が定かでないため、ちょっと省き気味になります。
天候が回復しての、ドイツ軍の攻勢は史実に近いものでした。クルスクを基点に東進を目指したのです。
ソ連軍は「溶鉱炉に人間を投げ込む」状態。回復した労働力に、レンドリースとして受け取った
補充。さらに増援を投入して、漸く大規模な突破を防いでいました。
ソ連軍としては、兵力も決して増えて行かず、戦線も後退を繰り返すという、厳しい戦いが続いたのです。
しかし、私には強みがありました。そんな戦況はマイドマイドだったのです。
42年~43年冬天候が悪化するまで、ドイツ軍の進撃は続き、遂にスターリングラードまで達しました。
ソ連軍は最終防衛ラインまで押し込まれていました。2重の戦線を構築する兵力はなく、ヴォルガ河で、スターリングラードからサラトフまでで戦線を張るのが精一杯。最南端のアルハンゲリスク前面には戦線は存在せず、その都市に2個ユニットを入れて死守する構えでした。
そして前年より早く天候は悪化したのです。
ソ連軍は、ドイツ軍が薄いままにしていたレニングラード前面で攻勢に出ました。
そして降雪になり、ドイツ軍の中央軍集団の後方へ空挺降下を決行。パルチザンも使い、ドイツ軍の戦力展開を妨害しました。
この冬が明けるまでに、ソ連軍はほぼ無血でリガを占領・・・、いや解放でしたか。ドイツ軍の中央軍集団は、ソ連軍の波状攻撃を受けて壊滅状態でした。
しかし、物語はここで終わることはありませんでした。
43年の死闘壊滅寸前のドイツ北方軍集団でしたが、増援のSS装甲軍団が到着し戦力は何とか整いました。そのSS装甲軍団が大活躍するのです。
リガを解放し、さらに西進を目指したソ連軍の先鋒。親衛軍のスタックへ反撃を行い撃退。さらに追撃を行い壊滅状態へと追い込みます。これはミンスク前面の中央軍集団戦区でも行い、一時はドイツ軍の攻撃が終わると、ソ連軍がいない状態になっていました。あまりにも見事な反撃で、敵ながら天晴れ。笑ってしまえました。
ソ連軍の北部での攻勢が頓挫した後に、攻勢の舞台となるのは南方。キエフの前面でした。
ソ連軍は冬の間に、精鋭部隊を各地に分散する防御態勢から、密集させる攻撃態勢に変えていたのです。オッズは上がりませんが、3ヵ所で攻撃を行えば、その内1~2ヶ所は成功します。そこから親衛軍を捻じ込んで、ドイツ軍スタックを包囲したのです。
ドイツ軍はバラして配備すると、オッズを上げられてしまいます。それを避けるため、スタックをすれば、包囲された場合に被害も大きくなるのです。
そこで見捨てられず包囲からの救出を目指して反撃。すると、“C”が出て拘束される。
それを繰り返したため、凄まじい殴り合いが展開されたのです。
43年を終える頃には、ドイツ軍には精鋭の装甲軍団か、後方でパルチザン狩りを行っていた枢軸同盟国か、と。正に、史実に近い状況でした。
終末の44年44年の春を迎えると、ドイツ軍は決定的に戦力が不足します。
キエフ正面の殴り合いの、その南には戦線など存在しなかったのです。
悪天候での移動力不足により、ソ連軍に回りこまれる事がありませんでした。そう、ドイツ軍はギリギリの綱渡りを行っていたのです。
そして天候の回復により、戦線の綻びを放置する事はできなくなりました。
ドイツ軍の南部は、元の国境を目指して退却。先回りを目指したソ連軍によるオデッサ強襲上陸も行われましたが、何とか撃退。ブーク河に沿って戦線を構築しました。
ソ連軍は波状攻撃により、大損害を被ったものの、遂にはこの戦線を突破しました。
危機的状況は中央方面でも起こります。
奮戦していたSS装甲軍団の1つがEXで飛びます。それを合図に残るSS装甲軍団が他の戦線へと引き抜かれて行きました。
ヘルシンキは毎ターン行われる定期便の攻撃により陥落。フィンランドは脱落していました。これは44年の始めでした。
ソ連軍がルーマニアに踏み込んだのは44年の春。
そしてオデッサとワルシャワの陥落により、ドイツ軍の敗北が決定したのは44年7/8月でした。
お相手くださった、水戸爺さんと紫の旗さん。
有難う御座いました。格別な時間を過ごせました。
さて、ここで日本中へ呼びかけてみよう。
誰か、『THE RUSSIAN CAMPAIGN 2』が再販されて、44年7/8月ターン以降粘れた方はいるのかな?
[2回]
PR