AH『THE GUNS OF AUGUST』
かなり遅れましたが、5月3日4日の連休に、YSGAへお邪魔してAH『THE GUNS OF AUGUST』を対戦した。リプレイをお送りします。このリプレイをアップしなければ、この一年は終えられない。そんな一戦でした。
『1914年8月』開戦
写真は両陣営の配置を終えた時点。
まずは、快く出迎えてくれたYSGAの戦友達。
Bulebear、Dublin、もっちひ、もりつちの各氏には、心からの感謝を申し上げます。有難う御座いました。
それからガンズ遠征に付き合ってくれた千葉会の下総、ちはら会のmitsu、ミドルアースから助太刀してくれた西新宿鮫の各氏には、感謝以上に、敗戦の責任を感じ大きく感じている。申し訳ありませんでした。
リプレイへ移る前に、ルールについての事前協議があった事をお知らせする。一部ルールの修整を行っているのである。
というのは、使用するルールの範囲に「不確定参戦」があり。これをそのまま使うと、かなり不自然な事態が発生する。例えば、1914年11月にイタリアがCP陣営で参戦したり、1915年2月にアメリカが参戦したりする。
これはあまりにも酷いのでないか、との意見で「参戦チェックはトルコ:1914年、イタリア・ブルガリア・ルーマニア・ギリシャ:1915年、アメリカ:1916年、とそれぞれの年度以降に行う」とした。
正直、アメリカが1915年に参戦しないのは、CP陣営として心の底から安堵した。その代わりに、アメリカ参戦を早める潜水艦戦は行うまい、と千葉会連合の中で決めた。
配置を終えて、記念撮影の図。
皆さん、お仕事の都合で顔をWebで晒すのは勘弁、というので修整済み。
では、担当を紹介して行きましょう。
千葉会+α連合が中欧諸国(CP)を分担。
西部戦線:私・暴君yagi
東部戦線・ドイツ軍:mitsu大帝
AH(オーストリア・ハンガリー):下総将軍
これに西新宿鮫参事が2日目の東部戦線全体を担当。
YSGA組が連合軍(AP)を担当。
フランス:もりつち参事
イギリス:Bulebear元帥
ロシア:Dublin大公
セルビア・イタリア・ルーマニア:もっちひ公使
以上、延べ人数が合計8名となる、豪華な対戦でした。
こちらが1914年8月のドイツ軍を終えたところ。シェリーフェン・プランが実行され、ドイツ軍がベルギー蹂躙。
この対戦を行う前に、千葉会の面々で相当の演習と打ち合わせを行い問題点をあぶりだしていた。
その1つが、バルカンへの早期攻勢だ。セルビアへAH軍の精鋭と、ドイツ軍の騎兵を投入すれば、一気に圧倒できる。その勢いのまま、バルカン制圧を狙うのである。
そしてセルビア軍の配置を見た瞬間、AH軍担当の下総将軍と私の目が合い、「行ける!」と2人で確認した。
普段、物静かで感情を出さない下総さんが、後ほど「心が震えた」というのだから、かなり緊張したのだろう。
次ぎの1つはベルギー軍の配置である。
私が担当するこの攻勢に、数十回の模擬演習を行っていた。その結論として、ベルギー軍がアントワープか、リエージュへ3個配置されると、かなり苦戦する。しかも、YSGAでの事前演習を画像解析すると、その配置を行っており、相当な危機感を持っていた。運が悪いと、アントワープにフランス軍の救援が届き得るのだ。
しかし、ベルギー軍の配置はリエージュとアントワープに2個ずつ。表情には出さなかったが、大いに安堵した。
そして事前の演習通りに、リエージュを蹂躙し、アントワープも占領したのである。
1914年8月を終えた時点。年月大きい写真をリンクしている。これ以降同じような処理をしている。
では、細部を見てみよう。
西部戦線では、ドイツ軍のシェリーフェン・プランと、フランス軍のエランが交差している。
これも解説しよう。
1914年8月の特別ルールがあり、ドイツ軍は通常の移動と戦闘を終えた後で、メッツ以北のユニットが特別な第2移動を行える。そのため配置で、わざわざメッツ以南のヘクスを空にして、そこを守るべきユニットはメッツの北側へ配置しており、第2移動で入れている。
そして1914年8月のフランス軍は、敵ZOCにあるならば、攻撃に参加しなければならない。これはフランス・プロイセン戦争での敗戦を分析し、その原因をナポレオン以降の厭戦気分であると結論付け。次なる戦いでは、フランス軍は攻撃せねばならない、と思い込んでいたのである。ところが、事前準備もないままに行われた攻撃は、無謀な突撃となり、フランス軍へ大損害をもたらし、ドイツ軍の攻勢を助長する結果となる。
今回のシェリーフェン・プランは、まあ上々の結果だろう。ベルギーは確実に崩壊させられている。そしてフランス軍の反撃だが、序盤の大損害に危機感を持ったロシア軍司令部より、作戦指導が入電。大いに減少させられたのであった。そしてイギリスが参戦。早速BEFを編成してカレーへ上陸。
東部戦線では、当初の予定通りにドイツ軍は防御態勢。ロシア軍も敢えてドイツ軍相手に攻勢へ出なかった。
ただし、ガリシア戦線ではロシア軍はAH軍へ対して攻勢に出る。ここはAH軍担当の下総さんがインスブルグとプリミシェル要塞を鉄壁防御。事前演習でロシア軍に付け入る隙を与えぬよう、散々演習したのであった。そこでロシア軍は無理攻めを避けて、カルパチア山脈を迂回する作戦を決行。これは予期された事であったが、防ぎようがなく、AH軍は耐えるのみである。
予想外だったのが、セルビア戦線。ここに集中したAH軍精鋭とドイツ騎兵であったが、セルビア軍に上手くいなされてしまった。投入兵力に比べて、戦果は多くないものの、それでも前進は地中海まで止まることがないだだろう。
さて、CPの全体的な戦略であるが、「ロシアの打倒」が第一であった。そのためにバルカンで早期に攻勢を行い、APに付け入る隙を与えない。1915年の兵力増強を待ち、ロシアへの攻勢を行う。
作戦的には、バルカンを制圧しルーマニアからロシアへ攻め込む。ドイツ軍はリガ方面への攻勢を行い、ロシア軍の戦線を引き伸ばし、本命の中央部へ攻勢移転。ロシアを圧倒する。正直、この手順であれば、初日にある程度の形を作れ、二日はロシアへの攻勢だけなので、担当する西新宿鮫さんも楽に対応できる、と思っていた。
ドイツ軍としては、1914年8月の時点で西部戦線での攻勢を中止している。何故なら、私がドイツ軍の補充を担当しており、優先順位としてバルカン⇒ロシア⇒西部戦線⇒その他としていた。
[0回]
PR